茶室を楽しむ
奈良県:西方院

大玄関

露地の正面は敷瓦の玄関先で、黒い竹簀子(たけすのこ)のあがりがまちと障子の白さの対象の妙は軽快で、しかも落ち着いた風格をかもし出しています。間口の広さが、急に視界の開けた印象を与えると同時に、客を心から迎える亭主の心づかいを示しています。檜皮葺(ひわだぶき)の庇も簡潔で、全体が数寄屋独特の瀟洒(しょうしゃ)な趣に満ちています。禅に通じ、あらゆる宗教の実践の場としての茶道の「玄妙の関」(げんみょうのせき)にふさわしいものです。


無色軒(むしきけん)

「松無古今色」にちなんで七代の竺叟宗乾が好んだと伝えられ、天明大火後に再建されました。五畳敷に一畳の榑縁(くれえん)がつき、一種の踏込床として扱われています。炉は本勝手向切で下座には張壁床があります。点前畳の左隅にしつらえた仙叟好みの釘箱棚・くれ縁張りと点前畳との境の下地窓、大胆な意匠の鴨居など、見どころの多い茶室です。


又隠(ゆういん)

席名の由来は、宗旦が隠居所今日庵を建てたのちもなお諸務に携わっていましたが、再度の隠居に際して新たに造った庵を、また隠居するという意味から命名したことによります。萱葺の南面入母屋造りで、ことに採光のための庇の突上げ窓の様式など、利休好みの式での四畳半草庵の茶室として、今日庵と並んで、裏千家の代表的な茶室とされています。躙り口周辺の豆を撒いたような配石(豆まき石)も宗旦の創意と伝えられています。


今日庵(こんにちあん)

宗旦が不審菴を江岑宗左に譲り隠居所として建てた茶室です。席開きの当日、時刻に遅れた清巌和尚が、茶室の腰張りに書きつけて帰った「懈怠比丘不期明日」(懈怠の比丘明日を期せず)の意に感じて、宗旦が今日庵と命名したという逸話で知られており、今日庵の呼び名が生まれました。一畳台目という最も狭い草庵の茶室で床も壁面を代用した壁床です。茶室の構成を極限まで切り詰めたところに侘び茶人宗旦の面目躍如たるものが感じられます。


溜精軒(りゅうせいけん)の「杓の柄窓」

寒雲亭と大水屋との間にある六畳を溜精軒といいます。玄々斎の好みで、逆勝手出炉(でろ)となっており、除夜釜だけに使用されています。風炉先の下地窓が使いふるしの柄杓の柄でつくられていて、「杓の柄窓」として有名です。桑の一枚板の大棚も特色の一つとなっています。床は点前畳の勝手付壁面が当てられ、亭主床の構えになっています。いずれをとっても、貧にあまんずる侘び茶の精神にあふれた構成です。


咄々斎(とつとつさい)

1855年(安政二)、玄々斎が建てた八畳の席で、宗旦の号をとって咄々斎と命名されました。床は、又玄斎一燈手植えの五葉松古材の柱に蔦の框、床脇は踏込地板敷の正面に大きな下地窓を開け、利休が秀吉から拝領した銅鑼が吊ってあります。五葉松の古材を長板の寸法に切り、これを組み違いに張った格天井は一崩しの天井と称し、床脇上方の竹、前庭の「梅の井」と名付けられた井戸と共に配して松竹梅に擬してあります。  欄間の香狭間桐透しや反古襖(ほごぶすま)などいずれも玄々斎の趣向の深さがしのばれます。代々の家元が出座されている式場でもあります。  本席の命名は元伯宗旦の咄々斎の号によるものですが、特に小松宮彰仁親王は晩翠の名を用いられ、玄々斎のために咄々の文字をお書きになり、今も扁額として掲げられています。